西暦 | 出来事 | コメント | ミュージシャン、レコードなど |
---|---|---|---|
1963 | 11月21日(木) 京都市に生まれる |
右京区は太秦安井に住まう。 大人になってから行ってみると、道は狭いし遊ぶところは無いし、 父が引っ越そうとした気持ちがわかる。 |
|
1973 | 京都府向日市に 引越し |
この引越しで僕の人生が変わったような気がする。 自分に重大な影響を与える友人が沢山できる。 この後、母親が自宅で電子オルガンの教室を始める。 |
ザ・タイガース(姉の影響) |
1976 | 中学入学 | 7歳年上の姉の影響で、ブラスバンド部に入部。 一旦パーカッション担当に決まるが、調整によってユーフォニアムに落ちつく。 |
ベイ・シティ・ローラーズ(姉の影響) かぐや姫(姉の影響) 宇宙戦艦ヤマト 石川晶 村上ポンタ秀一 |
1978 | ホルンに転向 | ユーフォニアムが同級生と二人であった事と、
同じく同級生のホルン吹きが辞めたためにホルンに転向。 当時「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」を聴き、「ユーフォニアムはオーケストラには無い。 このままでは危ない。」と感じたことも転向した理由の一つであった。 |
渡辺貞夫 カリフォルニア・シャワー(姉の影響) ハービー・メイソン ネイティブ・サン(姉の影響) 村上寛 |
1979 | 高校入学 | あたりまえのようにブラスバンド部に入部。 しかし歯が悪いために管楽器を断念し、パーカッションに転向。 中3の頃に「ディスコ 宇宙戦艦ヤマト」を聴いてドラムに興味を持っていたことと、 姉の影響でナベサダやネイティブ・サンを聴き、 「ホルンは吹奏楽かオーケストラにしか無い。もっと幅広いジャンルで演奏できる 楽器でないと危ない。」と感じたことも転向した理由の一つであった。 9月の文化祭のステージで、初めてドラムセットを演奏する。曲は「黒いジャガーのテーマ」。 年末には「ネイティブ・サン」のコンサートに行く。すっかり村上寛氏のドラムにハマる。 |
渡辺貞夫 モーニングアイランド スティーブ・ガッド 猪俣猛 日野皓正 シティ・コネクション |
1980 | 日野皓正を生で聴く | 前年の「シティ・コネクション」を聴いて刺激され、
この年のコンサートに行った。バックはザ・プレイヤーズ。 当年の「デイ・ドリーム」ではスティーブ・ガッドのドラムにハマる。 学校外での有志のブラスバンドにも参加。 そこで知り合ったベーシストに、ウェザー・リポートを聴かされる。 |
ザ・プレイヤーズ 渡嘉敷祐一 日野皓正 デイドリーム ウェザー・リポート 8:30 ピーター・アースキン 松岡直也 |
1981 | カシオペアを聴く | YAMAHAのスネアSD-970R(ソリッドブラック)を購入。 同級生から「こんなんあるでぇ~」と聴かされたのが、「アイズ・オブ・ザ・マインド」。 すっかりカシオペアにハマる。もはや吹奏楽に未練は無くなった。 |
カシオペア 神保彰 |
1982 | 大学入学 | 軽音楽部に入ろうと思ったが、1回生はバンドを組ませてくれないと聞き、
アホらしくなってパス。とりあえず練習の場に、と吹奏楽団に入団。これが僕の人生を大きく変えることになる。 入団してみると、演奏のレベルは低いわ、運営は封建的だわで、「僕は音楽を演りにきたんですが・・」と言って退団。 しかし定期演奏会には楽友として出演することになる。 この年、中学からの仲間であった中路君と初めてのフュージョンバンドを結成。4リズム、Tp、Tbの編成。 |
リー・リトナー ナニワ・エキスプレス 東原力哉 99.99、羅麗若 菅沼孝三 ジャコ・パストリアス ビッグバンド ケンウッド・デナード |
1983 | ドラムセット購入開始 | 2回生の夏休みのバイト代で車の免許を取り、余りで楽器を揃え始めた。
スネアは持っていたので次はベードラとシンバル。 バンドメンバーであった電子オルガン講師の発表会のサポートをするが、 これに間に合わせるためにソリッドブラックを断念、リアルウッドに路線変え。 「カバーリングでなく、しかも安い」というのもリアルウッドを選んだ理由の一つであった。 |
|
1984 | バンド大忙し | 中路君とのバンドはギター中心のバンドと、Tb中心のバンドに分かれ、
そのどちらにも参加、中路バンドは編成をいろいろ変えつつも京阪地区でぼちぼちライブを始める。
初めてのライブは上新庄の「ブルーシティ」だったか。 その他いろんなバンドに参加し、最多忙時期は週に3日くらい練習スタジオに入っていた。 春休みのバイト代でタムタムを購入、ドラムセット完成。 この年の秋、楽友として参加した大学の吹奏楽団の定期演奏会で、 打楽器奏者の小幡亨氏と知り合う。 当時小幡氏はアメリカ帰り直後であった。 |
|
1985 | 打楽器奏者として 活動開始 |
小幡氏に「アマチュアのマンドリンオーケストラを相手に、
打楽器の賛助の仕事を始めようと思うが、一緒にやらないか?」と声を掛けていただき、??だったがとりあえず始めた。 プロとしての心構えをみっちり仕込んでいただいた。京阪神の大学を中心に、年間10本ほどのステージをサポート。 |
|
1986 | 就職する | 某機械メーカーに就職。CAD担当者として、
国際仕事用器械社のホストコンピューターと格闘する。 就職直前のライブ(藤井寺バグース)を最後に、中路バンドを脱退。 何故なら、自宅から程近い京都に配属になるとは夢にも思っていなかったから。 |
チック・コリア エレクトリック・バンド デイブ・ウェックル GRPオールスターズ ヴィニー・カリウタ |
1989 | 結婚する | 時代が平成に変わった直後、中学時代からの後輩と結婚。
結婚式ではご多忙にもかかわらず中路君とのセッションが実現。
この後、氏は「高橋達也と東京ユニオン」のオーディションに合格、上京する。 冬には長男が誕生。マンドリン賛助の仕事が大忙し。 |
KENSO 村石雅行 |
1990 | 東京へ転勤 | 10月から東京勤務になる。埼玉県は当時の大宮市に住まう。 マンドリンの仕事はしばらくお休み。 | |
1992 | 二男誕生 | かの有名な、岩槻の丸山病院にて出産。 そう、安室奈美恵の元ダンナ、SAMのお父さんに取り上げてもらった。 | |
1993 | 京都へ戻る | 10月、3年間の任期を終え、戻ってきた。 マンドリンの仕事はもう声は掛からないかと思いきや、なんのなんのイキナリ再開。ありがたいことである。 | |
2000 | 三男誕生 | 二男誕生の4年後、第三子を懐妊するが流産、それから4年、 20世紀の終わりに子宝を授かった。 | |
2001 | 音楽教室の発表会を お手伝い |
地域の音楽教室の発表会にドラムで参加、電子オルガンのレジストを走らせながら生ドラムでアンサンブルする手法を確立。 | |
2003 | 四男誕生 | 上の兄ら二人が仲良くしているのを見て三男が僻んだのか、 「ぼくもおとうとがほしい」と言ったかどうかは判らないが、四男が誕生。 | ヒダじんぼ ヒダノ修一 |
2004 | ドラムセッション 始動 |
「SYNCHRONIZED DNA」を見て触発され、神保さんBBSで知り合ったokuさんと 「SYNCHRO"SHI"NIZED DNO」を開始。 | |
2013 | ヤマハ ドラム演奏グレード 6級取得 |
50歳になった記念にグレード試験を受験。 |